【寄稿】元審査官の立場から「特許審査の現場で起こったデジタル化」を振り返る
チザDで、過去にこんな記事を投稿しました。
・日本特許庁のDXの歴史を知る旅(1) 日本で最初の特許情報オンライン検索システム誕生
・日本特許庁のDXの歴史を知る旅(2) ペーパーレス計画の達成
現在第3回「特許庁業務・システム最適化計画(第一次)の立案と失敗」について参考資料を読みながら執筆を開始しているところです。
そんな中、コロナ禍を前後して特許庁の審査官であったツバサクさんから「審査の現場で起こったデジタル化」について寄稿いただきました(編集部にて関連画像やポストの挿入しています)。
日本特許庁のDXの歴史を知る旅「特別編」として、ぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
特許審査の現場で起こったデジタル化を振り返る 元特許審査官・ツバサク
はじめに
こんにちは、ツバサクといいます。前職は経済産業省特許庁で特許審査官をしていました。
現在は、そんな前職の経験などを基に、なるべく堅くなり過ぎないように、時に少しおもしろおかしく、とはいえおふざけになり過ぎないトーンで、Xにちょこちょこと投稿させていただいています。
もしかしたら、本稿をご覧いただいている方の中にも、「ツバサクの投稿を見たことがあるよ」という方がいらっしゃるかもしれません。この場をお借りして、心より御礼を申し上げます。
このたび、知財デジタルイノベーションハブの山田様より、特許審査の現場におけるデジタル化の観点での寄稿のご依頼をいただきました。まずは、ご依頼をくださった山田様に深く感謝申し上げたいと思います。
このお話を頂戴して私の頭に真っ先に浮かんだのは、特許審査のペーパーレス化の動きでした。
読者の皆さまもご承知のとおり、つい5、6年前、新型コロナウイルスの猛威により、世界は社会的な大変革を迫られました。
ある日突然、家から近所のコンビニへ気軽に買い物に行くことや、家族と行楽地に休日出かけることまで制限されるとは、当時、誰が予想できたでしょうか。
おそらく、ほぼ全ての方にとって、人生の中でも最も大きな生活スタイルの変革を迫られた時期の一つだったといっても過言ではないでしょう。
私が勤めていた特許庁も、無論、大きな仕事スタイルの変革を迫られました。当時は、多くの審査官にとって、あまりに厳しい毎日だったと思います。しかし、その苦しみの果てに一気に前進したのが、特許審査におけるペーパーレス化だったと、私は振り返っています。
本稿では、コロナ禍に端を発する、特許審査の現場におけるペーパーレス化を振り返ってみたいと思います。知財特有の難しい言い回しなどは極力用いず、当時の雰囲気が読者の皆さまにも伝わるよう認めてまいりますので、最後までお付き合いいただけますと幸いです。
なお、ペーパーレス審査システムの詳細などは、内部システムに関わる事項でもあるため、ここで触れることは差し控えたいと思います。あらかじめご了承ください。
(序章)その日は突然やってきた
2019年の冬頃でしょうか。新型コロナウイルス感染症に関するニュースが、徐々に目に入ってくるようになりました。
ただ、その頃は、まだどこか他人事くらいにしか思っていなかったというのが正直なところです。実際、私は2019年の年末頃に普通に国内出張に行っていましたし、年が明けてからも、お酒の席に参加していた記憶があります。
しかし、2020年3月から4月にかけて、東京都内でのコロナウイルス感染者数が急増し始め、あっという間に、国として無視できない事態にまで発展してしまいました。
当時の特許庁の審査部は六本木仮庁舎にありました。各審査室の間がパーティションで区切られているわけでもなく、互いに見晴らしの良いレイアウトだったのですが、ある日、ふと隣の審査室に目をやると、その部屋の審査長が近くにいた審査官を手招きして呼び寄せ、何やらコソコソと耳打ちしていたのを覚えています。
そして、その翌週くらいから、私たちは急激な働き方の変革を迫られることになりました。これはあくまで推測ですが、おそらく幹部クラスの中では、すでに働き方を大きく変える方針が決定されており、そのことを審査長が事前予告的に、そっと審査官に教えてあげていたのかなぁと思います。
当時の特許庁は、何となく在宅ワークの試行をしていたくらいの時代でした。
コロナ禍以前から、審査官の中には、家庭の事情などを理由として、在宅ワークに対する一定のニーズがありました。そのような審査官は、率先して在宅ワーク制度を活用していたように思います。
特許庁では以前から、勤務の多様性を設けるという趣旨でテレワーク制度が導入され、手続きの簡素化や環境の充実化が進められてきました。今回のコロナ対応においても、基本的にはこの制度を利用することによってテレワークを実施しています。
パテント誌「コロナ下での業務対応のご紹介(特許庁)」より引用
また、基本的には登庁して仕事をする審査官であっても、体験のために少なくとも一度は在宅ワークをするよう、指示が下りていました。
何を隠そう、当時の私は、「仕事を家でやるなんてあり得ない」という思想の持ち主だったので、ずっとその指示を無視していました。
そしてついに、当時の審査長から、「ツバサク君は在宅ワーク未経験の数少ない審査官の一人になっています。というわけで、在宅ワークをやってみてください。」と指示を受けた時、めっちゃくちゃ嫌な顔をしたのを、今でもよく覚えています(笑)
しかし、その後、週をまたぐかまたがないかくらいの勢いで、在宅ワークの試行なんて言っている場合ではなくなってしまいました。
国の方針として、特段の事情がない限り、審査官が登庁できるのは週1日まで、裏を返せば、週4日は在宅で仕事したまえということになったのです。これには、私を含め、ほぼ全ての審査官がひっくり返るレベルで驚いたものと思います。
さらに運が悪かったのは、週1日の登庁制限がかかったのとほぼ同じタイミングで、審査部の六本木仮庁舎から特許庁本庁舎への再移転が予定されていたということです。つまり、極めて厳しい登庁制限がかかっている中で、審査部に横たわる膨大な書類や備品などを、引っ越しに向けて梱包しなければならなかったのです。
たしか予定通り引っ越しできるのかという議論もあったような気がします。しかし、大規模な引っ越しに備えて業者への発注なども完了していたため、結局、時期をずらすことはなく、予定通り再移転が実行されました。
(導入期)週1登庁での仕事スタイルをいかに確立するか
週1登庁、週4在宅で仕事をやれ!
いや、言葉にすればシンプルですが、そんな簡単にできるわけがありません。何にせよ、最大のネックは、特許審査に必要となる膨大な紙書類達です。
コロナ禍以前から在宅ワークが試行されていたと申し上げましたが、あくまで試行であり、電子媒体で審査を進めるための仕組みが取り立てて整っていたわけではありません。
審査室にもよりますが、明細書などの書類のボリュームは半端な量ではありません。とりわけパチンコ系案件、バイオ系案件などは、1件の明細書が1,000ページを超えることもざらにあります。
案件1件を家に持って帰って審査し、また、再び庁舎に運んで提出する。それ自体がそもそも重労働であろうことは、想像に難くないと思います。
やがて、多くの審査官が、海外旅行に持って行くようなスーツケースを転がしながら登庁・退庁する光景が、当たり前になっていきました。
ちなみに、家に持って帰って審査する案件は、公開済みの案件に限定されていたことを、念のため強調しておきたいと思います。
ただ、家に持ち帰って審査するといっても、システム上、案件を提出できるのは登庁時に限られていました。Wordファイルなどで作成した起案を庁内の審査システムにコピーし、提出ボタンを押して、ようやく案件1件の審査が完了になるのです。
この庁内審査システムへの起案コピーが、意外に時間喰い虫でした。PCTなどの未公開案件は、貴重な週1日の登庁時にしか着手できません。一方、在宅時に作成した起案のコピーや提出も、当然ながら登庁時にしかできません。これらのタスクを、週1日の登庁時にいかにやり切るか、登庁日はまさに戦いそのものでした。
大声では言いませんが、コロナ禍にあっても、審査処理目標に修正はかかりませんでした…つまり、コロナ禍以前と同等の審査処理が求められると同時に、審査官は新たな週1登庁ライフに適応することを求められたわけです。当時はドタバタの極みで、正直、もう正確な記憶もなくなっていますね(笑)
編集部注:コロナ禍が始まった2020年のファーストアクションや特許査定の件数は前年から微減に収まっている
(安定期)特許庁のスーパーシステム集団が魅せる
騙し騙しというわけではありませんが、審査官とは概して優秀なので、いつしか週1登庁ライフにも慣れ、求められる審査処理目標にも当然のように応えられるようになっていきました。
緊急事態宣言が発出されたり解除されたりが繰り返され、時には週2日、週3日の登庁が可能になり、また週1日に戻る、そんな日々だったなぁと思い出されます。
そのような激動の審査部の裏では、特許庁のスーパーシステム集団が、在宅での審査を効率化する仕組みを着実に整えてくれていました。
特許庁のスーパーシステム集団とは誰のことだと思いますか?
繰り返しになりますが、特許庁の審査官とは概して優秀です。その中には、審査以外にも更なる一芸に秀でた審査官も存在します。その一芸の一つが、システム関連の能力です。システムに秀でた審査官達が集まり、在宅でも効率的な審査を可能にするシステムやツールを作り上げていったのです。
在宅での審査を効率化するための要件は何か?私が考えるに、その絶対的な要件は二つあります。一つは、大旅行さながらのスーツケースによる紙書類の持ち運びを、そもそも不要にすること。もう一つは、紙書類での審査と同等に近い審査環境を、電子媒体上でも実現することです。
一つは、読んで字の如くで、詳細な説明は不要でしょう。紙書類の持ち運びを不要にする、すなわち、審査書類を電子媒体で簡易に参照できるようにするということです。担当する審査案件の出願番号を入力することで、その案件の審査経緯を簡単に確認でき、各書類をpdfファイルとして参照できるようになれば、物理的な利便性が格段に高まるといえるでしょう。
そして、もう一つ、こっちが大事です。特許審査官は、紙媒体での審査に慣れています。今までそうだったから、それは当然です。それを、電子媒体に移行したから、今日から全部こっちでやってねと言われても、なかなかそうはいきません。とりわけベテラン勢は、紙媒体での審査歴が長いわけですから、それ相応の反発も出てきたりするわけです。
私も審査官だったので分かりますが、審査過程における目の運び方とか手の動かし方など、おそらく人間工学的な話までし始めると、紙媒体での審査と電子媒体での審査とでは、だいぶ勝手が異なります。
その結果、頭の中での情報整理の効率が落ちてしまったりするわけですね。もちろん「習うより慣れろ」の世界ではあるかもしれません。ただし、審査処理目標という絶対的な制約のある審査官にとっては、新しい方法に慣れるための時間を捻出すること自体が難しい、という実態もあったと思います。
しかし、そこは特許庁が誇るスーパーシステム集団です。彼らは、もともと審査官です。したがって、審査官のわがままもある程度は分かりますし、叶えることができます。
どのような部分が審査官にとって「かゆいところ」なのか、どうすれば、紙媒体と同等に近い審査環境を実現できるのか、そうした点も踏まえ、在宅時の審査を支援するシステムやツールを構築してくれたわけです。
詳細な機能については、紙幅の関係上、または内部事項に関わるため、ご紹介を割愛させていただきますが、電子媒体上に自由に書き込みができる機能や、メモなどを自由に書き込んだファイルを案件ごとに整備された電子包袋へ格納できる機能などが備わっていました。私自身はそこそこ愛用しており、在宅時の審査には欠かせないお供となっていました。
ただ、そのような充実した機能を備えた在宅審査用のシステムやツールであっても、当初はなかなか浸透しませんでした。やはり、紙媒体から脱却することへの抵抗が強かったんですね。便利な機能を備えたシステムやツールが存在することと、そのシステムやツールが広く浸透することとは、イコールではありません。これは、そのことを如実に示す事例だったと思います。
この頃は、ポストコロナにおける働き方をどうするべきかということも、検討され始めた時期でした。その中で、ペーパーレス審査は、庁全体にとっても喫緊の課題となっていました。
脱炭素や情報セキュリティの観点からも、ペーパーレス審査は重要であるという方向性が示され、単に審査官にとって便利だからという観点を超えて、庁内に根付かせなければならないテーマになっていきました。そのため、担当部署による、ペーパーレス審査を浸透させるための研修や取組なども行われていました。
(成熟期)個々の審査スタイルの定着へ
新型コロナウイルス感染症の5類感染症への移行が近づいてきた頃には、全審査官とまでは言わないまでも、ある程度の審査官が、ペーパーレス審査を部分的にでも取り入れるようになっていたような気がします。少なくとも、スーツケースを持ち運ぶ審査官は、ほぼ絶滅危惧種になっていました。
登庁についても、週3日から週5日の範囲内でという運用になり、各審査官の中で、登庁時に行うことと、在宅時に行うことの整理がついてきたのだと思います。
まさに、コロナ禍という苦しみの果てに、新しい審査スタイルが各審査官に根付いたと言えるのではないでしょうか。
庁内では相変わらずプリンターがガシャコンガシャコン稼働していましたが、紙審査全盛期に比べればプリンターの総数は削減され、紙媒体が必要な部分だけ印刷するという考え方も根付いてきたのでしょう。
ペーパーレス審査の浸透という点では、現実的かつ適切な落としどころにまで達したのではないかなと、個人的には思うところです。
もっとも、紙審査全盛期には、当然のように全審査官が週5日登庁し、同じように仕事をして、同じように庁舎から帰宅をするという点で、働き方に一定の画一性がありました。
一方、今は週3日登庁から週5日登庁まで幅があり、紙媒体と電子媒体をどの程度の比率で使い分けるかについても、審査官ごとに違いがあります。まさに多様性の時代ということであり、もちろん、これは否定されるものではないと思います。
ただし、特許審査は行政サービスの一環です。審査官ごとに働き方や審査環境が多様化する中でも、特許審査のアウトプットの品質をどのように安定させるかという点については、特許庁がこれまで以上にしっかりと管理していかなければならないのではないかとも思います。
おわりに
私が退職してからも、特許庁内では様々な動きがあると、ポツポツと漏れ聞こえてきます。
やはり今はAI活用の時代!当然ながら、「AIを審査にどのように活用するのか」云々という話もあるわけですが、外部からは、少々評判の芳しくない話を耳にすることもあります。
最近聞いたのは、拒絶理由通知書や拒絶査定の文章が、どう考えてもAIに書かせたアウトプットそのものだったとか…?
もちろん、私は実際の文書を確認したわけではありませんので、真偽のほどは分かりません。ただ、私が退職する時点では、生成AIによって、そこまで精度の高い拒絶理由を書けるという印象は、ま~ったくありませんでした。
そのため、拒絶理由を生成AIのアウトプットだけで書こうという発想に至ること自体、むしろ「生成AIはそこまで進化したのか、あっぱれ!」と捉えることもできるわけです。
とはいえ、あからさまに生成AIオンリーで、審査官の起案というタスクを完了させてしまうのであれば、それは少々安直な気がします。
審査にもAIを活用する時代である、という考え方には完全に同意します。一方で、使い方を誤れば、当然に事故を起こします。
AIはあくまでツールであるという認識のもと、使用者である審査官には、正しいAIリテラシーは持っていてほしいと感じるところです。起案に刻まれるのは、あくまで審査官の名前であるわけですからね。
考えてみれば、コロナ禍におけるペーパーレス化も、単に新しいシステムやツールを導入すれば、それだけで成功するというものではありませんでした。
使う人がその必要性を理解し、自分の仕事の中に取り込み、最終的なアウトプットに責任を持つ、その点は、これからのAI活用においても同じなのかもしれません。
さて、ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。それほど深いお話にまで踏み込めず恐縮ですが、特許審査の現場で何が起こり、働き方がどのように変わっていったのか、少しでも雰囲気を感じていただけたのであれば幸いです。
最後に、宣伝になり恐縮ですが、以下に私のXアカウントをご紹介させていただきます。ご興味があれば、ぜひお立ち寄りください。今回の寄稿をきっかけとして、ペーパーレス化に関する思い出話なども、今後投稿していこうかなと思っています。
また、本稿について、ご興味・ご関心・ご疑問などをお持ちの方がいらっしゃいましたら、気軽にDMでコメント・ご質問をお寄せいただければと思います。大歓迎です!
※参考
ツバサクさんが「特許審査官になるまでの教育体制」について語った記事があるので、リンクを貼っておきます(別メディア「GrIP」に飛びます)。
特許審査官に昇任するまで~乗り越えなければいけない法定研修~ – GrIP
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